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 「常若」(とこわか)という言葉があります。

 たいへん長い歴史を持つ伊勢神宮では、昨年10月に「式年遷宮」が行われました。「式年遷宮」とは、20年に一度建物をつくりかえる最も重要な神事です。
 「常若」とは、常に再生し続け、永遠に美しく在るこの伊勢神宮の精神を示す言葉です。

 長い歴史を有するものは、ずっと同じなのではなく、常に変わり続けているからこそ生き続けているのです。
 これは企業にあっても、同じことがいえるように思います。

 5月7日放送の「アサザイ 今日の1社」には、260年以上の歴史を有するタキヒヨー(9982・東証一部、名証一部)の代表取締役社長 滝一夫様に出演いただきました!
 タキヒヨーは、名古屋を地盤としてグローバルに活躍する繊維商社。事業の多角化も進められ、ブランド服の生産、専門量販店やチェーンストア向けの生産なども幅広く展開しています。


 タキヒヨーの260年の「常若」はどこにあったのか?
 井上哲男から取材後記が届いていますので、どうぞお読みください!
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取材後記

タキヒヨー(9982)(東証一部、名証一部)

ラジオNIKKEIスタジオで取材・収録。お相手は代表取締役社長の滝一夫様

 

「タキヒヨーが紡ぎ続けてきたもの」

 
▼源流の「尾張織物」

 世界文化遺産に登録される見通しとなった富岡製糸場に、GW期間中5万人もの人が訪れたことが話題となっているが、その富岡製糸場が設立されたのが1872年。尾張織物の呉服屋「絹屋」から始まったタキヒヨーの歴史はそれよりも100年以上前の1751年まで遡る。

 富岡製糸場は蚕の繭から糸を紡ぐ長繊維の工場であり、一方で綿花から紡がれた糸は短繊維と呼ばれ、それぞれ特徴がある。その綿花作りがインドから日本に伝わったのが現在の愛知県西尾市天竹町とされている。町名は「てんたけ」ではなく「てんじく(インドの旧呼び名)」と読むことから古くからインドとの交流があったとされるが、実際に同市には米津町天竺桂という行政区も存在している。

 名古屋は大阪と東京の両方の良いところを受け入れるというが、尾張の文化もまさしくそうである。尾張織物は京都の長繊維である絹と江戸でも愛された独自の短繊維である綿の両方を融合させて栄えたものである。

 

 「アサザイ」お得意の「元気な名古屋企業のご紹介」。「タキヒヨー」を語るには、生地の卸しであるテキスタイル部門とアパレル完成品を小売会社に卸すアパレル部門での取引先が1200もあり、「北から南から」の独自の商法で安定的な売上げを誇る「しまむら」を始め、「イオンリテール」、「ベルーナ」、「オンワード樫山」などと深い繋がりがあること、それらのバイヤーを招いて毎月展示会を行う企画力、製品出力があること、在庫管理にも優れ、3年前に稼動させた自社の流通センターもコスト削減に本格的に寄与していること、株価は下値不安が小さく(番組でも紹介したが)ここ7年間はPBR0.6倍~0.9倍で推移しており、現在の0.62倍はその底レベルに近いことからNISA対象の「イノウエ・セレクト」の大きなシールが貼られること、など幾らでも挙げられる。

 
▼繊維産業の歴史を、ふりかえる

 しかし、私が今回伝えたいのは、もっと定性的な部分である。プロネクサス名古屋の人が事前メモを作ってくれたが、そこには滝社長までの10代の社長の肖像画、写真が並べられていた。収録前の打ち合わせでそれを見せると、滝社長はご祖父であった4代前の社長からの歩みを簡単に振り返られた。収録に立ち会った他の人は気づかなかったかもしれないが、それはまさしく私が聞きたかった戦前戦後からここまでの繊維産業の流れであった。

 明治・大正時代、最も日本で獲れた魚はニシンであった。無論、食用でもあったが、当時の漁獲高を日本人が食べていたら、皆が毎日食べていても余る計算になる。その大半は肥料となり、その肥料が最も適していたのが綿花栽培であったのだ。昭和30年代に入り日本のニシン漁が終わりを告げ、また、海外から輸入された自働紡績機は、米国などの花の大きい綿花用であり、日本の小さな花をつける綿花の需要は急速に衰え、結果的に綿花産業は衰退した。それでも繊維産業は労働生産性に支えられて日本の輸出の柱であったのだが、徐々にその比率は低下し、デフレの進行により生産拠点の海外移管が急速に進んで現在に至っている。

 

▼海外戦略のエンジン
 しかし、タキヒヨーは今、"これまでと違った形"での海外への進出を考えていると思う。

 この3月に一宮工場を移設・増設したが、その工場の中には一見クラシカルな英国式紡織機が並ぶ。滝社長いわく、「一見して取り入れることを決めた」。

 生地の歴史は英国の歴史であり、紡績機の歴史もまた英国の歴史である。「この英国の紡績機で紡いだ糸には空気が混じり、その揃っていない部分が独特の質感をもたらす」と社長は言った。新工場は単に自動化、効率化を求めたものではない。糸を紡ぐ工程、軽糸を揃える工程、生地を織る工程、その全てを従業員が目の当たりにして、繊維原料の組み合わせ、素材、質感の違いから、どのような製品の部分にそれを活かすべきかを考えることができる。この工場で素材から丁寧に仕上げ、愛着を持って出来上がった「一格上の商品」が海外戦略の主力と考えているのである。AKNY(アンクラインニューヨーク)に替わり、昨年の春・夏物から百貨店展開している女性ブランド「BERARDI(ベラルディ)」で培うもの、それが海外戦略のエンジンとなる。

 全くこれまでの服飾会社の海外進出とは違う視点がそこにある。番組の冒頭で「お会いしたかったです」と私が言った理由がお分かり頂けたかと思う。もし、繊維をひとことで表せと言われれば、私は「風合い」と答える。それはきっと滝社長の考えともそう違わないはずだ。

 

▼「文化」を、担う
 産業が文化にまで昇華した場合、その企業には担い手としての責任が生まれると思うが、一部の経営者はこのことを理解していないのが残念である。

帰りしな、海外経験の長い滝社長に「海外はよく行かれるんですか」と質問をしたところ、NY、ロンドンのことではなく、フィラデルフィア大学の話をされた。そこでは「糸」に関する学問があり、よく行かれるという。「染色など日本の大学にも繊維を学ぶ学科があるのでは」と私が聞くと、「いや、日本の大学には「糸」のことをあそこまで学び、研究するところはない」と答えが返ってきた。これが"担い手としての責任"である。

 

 数年前、米国の名だたる経営者に日本についてアンケートを行った英文記事を読んだことがある。その中で、日本を脅威と感じることは、との問いに対して、「技術力」、「製品の均一性」、「真面目な労働力」などを挙げる答えは少なく、「数百年の歴史がある旅館や和菓子屋の存在」や文化・歴史を挙げる人が多かった。新興国には幾らでも商売ができるが、欧州に対しては何度も厚い壁となって立ちはだかった文化という代物について米国は脅威を感じているのである。

 この話をした途端、滝社長から「虎屋の羊羹はずっとあの味だったと思いますか?」と質問が還ってきた。つくづくスマートでクールな人だ。

 

タキヒヨーの流通センターのある愛知県犬山市には日本に4つしかない城の国宝である犬山城がある。こちらの天守は安土桃山時代に築かれ、タキヒヨーよりもずっと先輩である。富岡製糸場は終わった歴史であり、タキヒヨーはつないできた歴史である。そして紡いできたものは「ものづくり」から生まれる「物語」であると、タキヒヨー自身が言っている。犬山城天守はこれからもタキヒヨーが紡ぐものを見守り続ける。タキヒヨーがこれから海外に出すもの。それは、糸、生地、丁寧な縫製、それら全てのこだわりが生み出す「風合い」であり、決して安価な機能性ではない。これこそが、日本の繊維業界の歴史であり文化であり、突きつける答えだ。(了)
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 取材後記は、以上です。いかがでしたか?
 「虎屋の羊羹」の話ではないですが、長く続いているものは、必ず理由があるのでしょう。今回の収録では、インタビューに対応しての滝社長の明瞭な説明が印象的でした。

 タキヒヨーはこれから、どう変わっていくでしょうか。「常に新たなチャレンジをする」という同社のこれからの「常若」を、見つめてみたいと思いました♪

(関連リンク集)
■タキヒヨー 株式情報
■タキヒヨー 会社沿革 ※取材後記中にある、10代にわたる社長の肖像画・写真が掲載されています。

代表取締役社長の滝一夫様と。
代表取締役社長の滝一夫様と。